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我、人に媚びず、富貴を望まず。

「我、人に媚びず、富貴を望まず。」という座右の銘を残す。
稀代の軍師であり、和歌や茶の湯を愛する文化人で、敬虔なキリスト教徒でもある。
側室を持たず、ただ一人の妻を愛した誠実な男でもありました。
天下人となった信長・秀吉・家康の下で活躍した“最強のナンバー2”であり、
猛将として名を馳せた、母里太兵衛や後藤又兵衛らほか“黒田二十四騎”を取りまとめるなど、
家臣からも名君と慕われる人物でした。

黒田二十四騎|黒田官兵衛には「黒田二十四騎」と謳われた勇猛な武将達が仕えていました。

官兵衛が選んだと伝えられる、初期に活躍した家臣の代表的な24人、その武功を伝えた
「黒田二十四騎」があります。
民謡黒田節で知られている母里太兵衛や猛将で知られる後藤又兵衛等、
つわものぞろいの24人です。彼らの多くは福岡に墓があり、今も福岡に眠っています。

黒田長政(1568~1623)

黒田官兵衛の嫡男。後に勇将として名を馳せる。官兵衛が織田信長に帰順すると、人質として羽柴秀吉に育てられた。
官兵衛が有岡城(荒木村重)に幽閉されると、謀反を疑われて殺害されそうになるが、竹中半兵衛などの機転で救われる。
関ヶ原の戦いでの活躍が有名で、関ヶ原での活躍が認められ、筑前福岡藩52万3000石の初代藩主となった。

福岡藩の藩祖 黒田官兵衛

2014年1月5日、大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送がスタート。
福岡には主人公「黒田官兵衛」の足跡が至る所に見受けられます。
福岡藩の藩祖である黒田官兵衛は、1546年播磨藩(姫路市)で誕生しました。
福岡の歴史を語る上で欠かせない、黒田官兵衛は通称を官兵衛、家督を息子長政に譲り、
如水(じょすい)と改名しました。天下の名軍師といわれた官兵衛が治めていたのが福岡の地。
しかし、官兵衛は九州平定の戦功として秀吉から与えられたのが、豊前国(大分県及び福岡県の一部)。
官兵衛の九州初の居城といわれるのは「馬ヶ岳城(行橋市大谷・みやこ町犀川)」でした。

官兵衛と福岡との関わりは、戦乱で衰退していた福岡(博多)の町を、太閤秀吉の命により
復興事業「太閤町割」というものが行われました。その再建任務に官兵衛も関わりました。
福岡(博多)再建は、現在の福岡(博多)の町に受け継がれています。

秀吉没後、1600年関ヶ原の戦いで官兵衛の息子長政は徳川家康に従い東軍の勝利に大きく貢献し、
官兵衛は九州にあり西軍の諸城を攻め九州を席巻しました。その活躍が認められ、
家康より筑前国52万石を与えられました。
筑前国に入った官兵衛・長政父子は、当時の名島城(福岡市・東区)に代えて新城を築き、
先祖の故地・備前福岡にちなんで福岡城と名づけました。
黒田家が藩主にならなければ福岡という地名はつかなかったのではないでしょうか。

福岡城を中心に「城下町」「商人町」と福岡の基盤を作った官兵衛が居なければ、
今日の博多(福岡)の発展も無かったともいわれています。

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